中動態の世界:意志と責任の考古学 (新潮文庫 こ 73-2) 文庫 – 2025/3/28(Amazon)
自分もこの年になるまで知らなかった中動態という概念。そもそも良く知っている能動態と受動態は誰しもが英語を習う時に明確に意識させられるものかとは思います。能動態が主語が動作の主体であることを示すのに対して受動態は主語が動作の対象であることを示すものです。これに対して、中動態は、主語が動作の主体であると同時に、その動作が主語自身に関わる、あるいは主語の内部で完結するようなあり方を表します。行為の「する/される」という二項対立では捉えきれない、行為と主体のより密接な関わり合いを示す態と言えます。この中動態というのは決して新しいものでなく古代ギリシャ語などの古い言語には存在していました。古代ギリシャ語では、動詞は能動態・中動態・受動態の三つの態を持っていてしかもむしろ中動態が受動態の先にあったということがこの本では解説されています。以下がギリシャ語での分類の例・・・
能動態: louō (ルオー) – 「私が(誰かを)洗う」
中動態: louomai (ルオマイ) – 「私が(自分自身を)洗う」「私が(自分のために)洗う」
受動態: louomai (ルオマイ) – 「私が(誰かによって)洗われる」
興味深いのは、古代ギリシャ語では中動態と受動態が同じ形をとることがあった点です。これは、行為が主語自身に帰ってくるという点で、中動態と受動態が近いニュアンスを持っていたことを示唆しています。しかし、ラテン語を経て現代の多くのヨーロッパ言語に変化する過程で、この中動態は次第に失われ、能動態と受動態の二つの態が主流となりました。日本語には、態としての中動態は明確には存在しませんが、「起きる」「寝る」「育つ」といった自動詞の一部に、中動態的なニュアンスを見出すことができるようです。むしろ明確な受動態の方があまり日常的には少ないかもしれません。この本は改めて中動態にスポットライトを当てて能動/受動の二元論では捉えきれない人間の経験や行為のあり方を理解するための考え方の提起をする内容になっていると思います。確かにする、されるだけではなくとある流れの中で意思とは一部食い違うところもありながら人生は流れていくものとすると以下の3つのような視点でもっとこの中動態の状態で表現されても良いはずです。
(1)意志中心主義からの脱却:人間の行為は明確な「意志」に基づいて行われるとされがちですが中動態は、必ずしも意志が先行しない行為や状態が存在することを示唆しています。やらされ感がありながら行動するというのは良くある話でそれが悪いとも悪くないとも言えないはずです。(2)責任論の再構築: 「する/される」の二元論で責任を追及するのではなく、行為が起こるプロセス全体や、その中での主体のあり方に目を向けることで、白黒はっきりした責任の在り方が見直されると思われます。(3)世界の捉え方の多様性: 能動態と受動態だけでは捉えきれない世界のあり方を知ることで、多様な視点で捉え、相互理解につながることが期待できます。 ということで自分の中では新たな視点の開拓となった良い本でした(内容は難しいですが)。



